諸仏菩薩の自利利他の精神を学ぶ

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仏法を学ぶということは、すなわち諸仏菩薩の自利利他の精神を学ぶことであり、自分自身が煩悩を断ち、生死を解脱するだけでなく、他の人々にも生死からの解脱と苦しみからの離脱、安楽を得られるように教えることができるのです。では、どうすれば菩薩のように学ぶことができるのでしょうか?

まず最初に学ぶべきは、諸仏菩薩の智慧です。なぜ智慧がなければ菩薩道を実践できないのでしょうか?なぜなら、智慧がなければそれは愚痴であり、衆生はまさに愚痴によって無駄に生死を受け、さまざまな趣で輪廻し衆生となっているからです。無明で覚らないという愚痴は、実に迷いの障りの首であり、悪業の源です。痴暗が業を作ることを因とし、生死を受けることを果とし、それ故に六道を輪廻し、ここで死ねばあちらで生まれ、あちらで死ねばここで生まれ、生まれては死に、死んでは生まれ、生生死死、長い劫の間輪廻を繰り返し、出る期がないのです。

智慧は大きく三種類に分けられます。第一は聞慧(もんえ)であり、経典の教えを多く聞くことによって得られる智慧です。第二は思慧(しえ)であり、聞慧を得た後、さらに道理に沿って思考し、正しい道理を得て生まれる智慧です。第三は修慧(しゅうえ)であり、思慧を得た後、さらにさまざまな修行方法、たとえば禅や浄土などに従って実践し、生まれる智慧です。以上の三種類の智慧を得れば、自然と自由自在な弁才が成就し、衆生の機根に応じて説法し、一切の衆生を教化できるようになります。注意すべきは、ここでいう智慧と弁才は、いずれも聞・思・修を経て証得されたものであり、一般的な世間的な知恵や弁舌とは比較にならないということです。

菩薩の精神を学ぶなら、自然と自分自身の安楽だけを求めるのではなく、自分が学んだ智慧を一切の衆生に伝え、一切の衆生を教化し、悪を善に改め、迷いを悟りに帰し、凡夫を聖人に変えなければなりません。

私たちが菩薩に倣おうとするなら、まず自己を充実させ、つまりは理を求めて慧を開き、その後、弁才を成就して説法し衆生を度すべきです。智慧を得れば、それは鋭い剣のようであり、一切の愚痴無明も断ち切るのは難しくありません。

 


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